憲理研50周年によせて

憲理研創立50周年を迎えて

憲法理論研究会運営委員長(2012-14年) 糠塚康江

 憲法理論研究会(以下「憲理研」と略記)は、2014年1月で満50歳となりました。
 「社会科学としての憲法学の理論的な展開」を目指して、1964年1月、憲理研が創設されました。その出発は、先駆的な憲法理論の追求者であった故鈴木安蔵氏を慕う在京30人ほどの若手の研究会にすぎませんでした。それから半世紀、全国に350人の会員を有する、日本学術会議協力学術研究団体に指定された憲法研究者の学会に成長しました。現在は、毎年5月に研究総会、7月にミニ・シンポジウムを開催しています。その一方、憲理研の運営は、「研究会」の原点に忠実のままです。多くの会員に支えられて、月例研究会、夏の合宿を、半世紀の間、続けてまいりました。こうした活動を通じて、立場を問うことなく、世代を超えた交流がはかられ、時々の課題に対する率直な理論的検討を可能にする基盤が形成されてきました。
 50周年を迎えるにあたり、『憲理研30年のあゆみ 1964-1994』(1994年刊)に掲載された「1968年水上合宿」の集合写真にご登場の(元)会員の方々に、ご寄稿をお願いいたしました。憲理研の創成期のころの話、ご自身の研究者としてのあゆみを憲理研の活動に重ねられた回想など、貴重なご証言を頂戴いたしました。是非、ご覧下さい。

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1968年水上合宿にて


憲理研の思い出

岩間 昭道(神奈川大学特任教授、千葉大学名誉教授)

 私が大学院に進学した1965年当時、憲理研の事務局が東大に置かれていたことから、会場の設営や案内状の発送などを手伝うようになり、こうしたこともあって、20代後半から30代前半にかけて、例会や合宿(水上合宿)によく参加したが、この間、特に印象に残っているのは、次の二点である。ひとつは、私は1979年11月から1980年10月までの1年間事務局長を務めたが、当時の憲理研には躍動感のようなものがあったことである。たとえば、この間に行なわれた例会や総会(「司法権論」という年間テーマのもとで、司法権の基礎理論、違憲審査制の比較制度的考察から憲法訴訟論にいたるまで、多岐の論点にわたって、山内敏弘、樋口陽一、針生誠吉、坂本茂樹、宮本栄三、並河啓后、横坂健治、戸松秀典、野村二郎(朝日新聞)、久田栄正、荻野芳夫、小林武、稲正樹、野上修市、芦部信喜の諸先生に報告していただいた)および恵庭牧場や長沼基地の見学の企画を含め中村睦男先生の全面的な協力のもとで実施された夏合宿は、「戦後民主主義」がなお最盛期を迎えていたという状況を背景として、日本国憲法の一層の実現を目指して、熱気に満ちた、生き生きとした雰囲気の中で行われていたことである。もうひとつは、例会の後の飲み会や喫茶店で、諸先生から貴重な話を伺うことができたことである。なかでも、星野安三郎先生から伺った皇室の話や「かみそりの刃」が送られてきた話、小林孝輔先生から伺った戦争中の話、天皇の「包摂作用」という深刻なテーマに関する針生先生と樋口先生の間のユーモアあふれるやり取りなどは、日本の憲法問題を考えるにあたっての視点の形成に少なからぬ影響を及ぼしたようである。

産みの苦しみを経て:憲理研の発展にのぞむ

浦田 賢治(早稲田大学名誉教授)

 鈴木安蔵先生の提唱で、憲法理論研究会をつくろうという会合が東京でひらかれた。1964年1月11日午後4時、勁草書房2階の応接室を借りたもので、これにわたしも出席した。だが発起人も規約案もなく、原始会員も明らかでない。提唱者が自覚した当時の複雑微妙な事情を反映するものといえようか。渡辺洋三氏らの提唱で3つの研究テーマを申し合わせた(鈴木『憲法学断想』36-37頁)。だが憲理研は主に憲法理論と憲法裁判に的を絞って活動を始めた。翌年全国憲法研究会が発足するまでの間、わたしも事務方を担当したが、事務局長を決められないほどで、憲理研はある意味で未熟児出産だったのかもしれない。
 それに先立つ1963年、小林直樹著『憲法動態の分析』の書評をしたことがある。鈴木先生の勧めによる。当時愛知大学助手の影山日出弥氏が芦部信喜教授のもとで「国内研究」をすることになった。その後東大の助手・大学院生たちもこの研究会に参加するようになった。彼らのうちある人たちは、マルクス・レーニン主義を支持する旧左翼世代を厳しく批判することになる。これも産みの苦しみのひとつだったかもしれない。
 「憲法理論研究ニューズ」発行の時期がながく続き、1992年「規約」にもとづく運営委員会が組織されて、いまは年刊『憲法理論叢書』(敬文堂)が発行されるまでに発展して、50周年をむかえる。パクス・アメリカーナ世界の崩壊過程のなか、日本版NSC設置・特定秘密保護法などで軍事化がすすむ。IT技術のグローバル・ヘゲモニーでオーウェルのいう監視社会化が強まる。この危機を憲法研究者はどうみるか、どうするか。こうしたいま、鈴木安蔵先生の「肖像画」を改めて描いてみたいと思う。

私の憲法科学と憲理研

杉原 泰雄(一橋大学名誉教授)

 私は、一橋大学では第3代の憲法講座の担当者でした。その専任になったとき、次の3つの講義を順次担当することを求められました。(1) 憲法総論(「市民憲法の歴史と理論」)、(2) 日本国憲法の統治機構、(3) その人権保障、です。

 (1) は、(2)と(3) の前提となるもので、近現代の市民憲法の原理・原則その他の基本用語の概念・その歴史的社会的意義を解明する憲法科学の問題でした。その故もあって、憲法科学の研究に力点をおく憲理研は、日本公法学会とは異なる魅力をもつ研究会でした。そこでは多くの有益な刺戟を受けましたが、気になることもありました。その初期の段階は米ソ冷戦段階で、資本主義か社会主義かに関心が集まっていたこともあり、近代立憲主義型市民憲法・外見的立憲主義型市民憲法・現代市民憲法についても、アメリカ憲法とソ連憲法についても科学的実証的研究の成果は少なかったようです。美濃部の「憲法の基礎概念」や宮沢の「憲法理論」のような比較研究に出会うことが少なかったのは残念でした(この点については、法律時報2010年5月号の私の報告をご参照下さい)。

 いま、日本の憲法政治は、解釈改憲と明文改憲および公教育改革を駆使し、日本国憲法からの「脱却」を目指しているようです。憲理研の本格的な出番がきているようです。現役のみなさんの活躍を期待しています。

若手研究者の発表の場としての憲理研

中村 睦男(北海道大学名誉教授)

 1964年に発足した憲法理論研究会が全国的な研究会として研究集会を展開するようになったのは、1970年になってからである。この年の夏の研究合宿は、「第一回憲理研・夏の研究集会」と表されて、「主権論」、「いわゆる社会権の再検討」、「教科書裁判」がテーマになっている。秋の研究総会では、「『社会権』の再検討」が統一テーマになり、私は、夏の研究集会に引き続き、社会権について報告する機会を与えてもらった。1970年は、私がちょうど助教授に就任した年である。秋の研究総会の報告とシンポジウムの記録は、『法律時報』43巻1号(1971年1月号)に掲載されている。私の報告の表題は、「歴史的・思想史的にみた『社会権』の再検討」で、私の最初の著書で、学位論文になった『社会権法理の形成』(有斐閣・1973年)の結論部分を構成し、フランスにおける社会権理論の歴史から日本の社会権を再検討したものである。
 憲理研において、設立初期に事務局を担当した中心メンバー(大須賀明、吉田善明、影山日出弥の諸氏)が気を配っていたことは、若手研究者が報告し、自由に発言する全国的な研究会であることである。私は、憲法学界へのデビューが憲理研であったことに感謝している。憲理研が現在も良き伝統を引き継ぎ、若手研究者に報告の機会を与え、自由に意見を交換する学会であり続けていることを嬉しく思っている。

憲法理論研究会「50周年によせて」

野中 俊彦(金沢大学名誉教授、法政大学名誉教授)

 憲理研が発足以来50周年を迎えると聞いて、感慨無量です。50年前の私は25歳、まだ大学院生の頃でしたが、諸先輩の薦めを受けて、入会しました。そして会員としては最年少に近かったこともあって、事務局のいわば下働きを依頼され、ささやかながら創設期の事務を手伝いました。それは必然的に、月例会等の行事にほとんど毎回参加することにつながりました。その後、金沢に職を得て定着し、事務的作業からは解放されましたが、会員諸氏の真摯な憲法研究の姿勢に共感をおぼえていた私は、会の行事には、引き続き務めて参加しました。たとえば夏の研究合宿への参加は、最初の15年間では参加率9割を超えました。その後、学務や他の研究会の行事などに追われて合宿への参加は減りましたが、研究総会にはほとんど皆勤したように思います。その後法政大学に転じ、1996年からの2年間は、運営委員長を務めさせていただきました。その後70歳の定年を過ぎても引き続き会員でしたが、能力の衰えを感じ、2012年に退会したばかりです。
 このように、憲理研50周年は、同時に、私の研究生活50周年でもありました。いまの私には、憲理研は、懐深くおおらかに私を育ててくれた「ふるさと」のように思われます。憲理研が今後とも、創設時の基本精神とこれまでの運営の成果を踏まえて、さらなる発展を遂げられるよう祈念いたします。

21世紀「新過渡期理論」の創造

針生 誠吉(都立大学名誉教授)

 「憲理研」の創設は、当時の憲法改正論の高まりに対応して、新しい科学的憲法理論を創造する歴史的任務をはたすためであった。
 発案者の鈴木安蔵教授はマルクス主義法理論の既成の大家であった。新理論のにない手は、若々しい影山日出彌名古屋大学教授である。私も「憲理研」創設にかかわったが、影山教授の功績は決して忘れてはならない。
 21世紀後半は、当時とも比較にならない歴史的大変動期となる。悲惨な旧殖民地時代から、高度の資本主義発展を「とびこした」アジア社会主義がその中心となる。欧米型のグローバル資本主義文化を数十年かけて包摂し、「新過渡期理論」による巨大なアジア・ルネッサンス時代をむかえることになろう。欧米型とは逆転する歴史的プロセスの解明は容易ならぬものであるが、仮に高校生にもわかりやすく説明してみよう。
 近現代資本主義市民革命憲法理論は、封建―近代―現代といわば直線的発展の長い歴史的プロセスを経て成長してきたものといえる。これに対してアジア社会主義の「民主集中制」はまず社会主義革命があり、それによりはじめて社会主義的民主主義の成立を見たのであり、封建制よりの真の社会的離脱、文化革命ルネッサンスがその後に可能となっているともいえる。極端に仮に簡略化すれば、欧米型の市民革命理論、高校生の世界歴史教科書などとは逆転している。
 下からの民主革命、ブルジョア革命を真実には欠落させて、高度の資本主義を発展させてきた、日本の今後のプロセスこそが問題である。一例をあげれば、日本の社会主義革命は、欠落をおぎない、下からの市民革命の成果を内包するものとなるであろうか。今後の日本の共産党連立政権は、市民革命憲法の成果である「日本国憲法」を、くらしに生かし、憲法を権力に生かす任務を内包する。その前に日本型ファシズムをどう防ぐか。機会があればくわしくのべたいが、若手研究者の任務は重大である。

初期の憲理研の学問的でない想い出

横田 耕一(九州大学名誉教授)

 初期の憲理研は、一種の鈴木安蔵先生の私塾といったかたちで始まり、仲間意識の強い集まりであった。大須賀明事務局長が提唱した「睨まず睨まれず」は、より若手の者に先輩たちと対等に議論する場を保障した。これは後に京都の上田勝美さん等の「憲法研究所」が合流した後も同様で、同志的雰囲気はしばらく継続した。ただし、69年の草津合宿は大学闘争のあおりを受けて、かなり険悪な雰囲気を生み、分裂含みではあったが・・。
 夏合宿最初の水上合宿では、影山日出弥・樋口陽一さんはじめ皆さん覇気に燃えており、鈴木先生を囲んだ写真撮影では横浜事件・泊町の旅館での写真に擬えられたり、崖っぷちを走ったバスでの車中では「転落すれば日本の憲法学は10年遅れる!」などとの声が交わされたりしたのも懐かしい想い出である。
 憲法学専門者の実践団体として発足したため当初は院生を排除していた全国研究会と異なり、野中俊彦・岩間昭道さんと私など院生や中村睦男さんなど助手を含む研究途上の若手研究者を中心とする研究会は、発足間もない頃は外部から警戒心をもって見られており、私たちの指導教授たちも加入に疑念を示されていたが、研究会が実績を重ねるにつれ積極的な協力者となられたのも、学会になった現在からは嘘のような事実である。この頃の憲理研が会員名簿を公表しなかったのも、就職等で障害になる状況があったからである。
 初期の合宿は家族同伴であったが、相模湖合宿では新婚であった山内敏弘さん夫婦と私ども夫婦が鈴木先生の前に呼ばれ、あるべき夫婦関係について懇々と訓戒を受けたことなどは、現在の会員には別世界の出来事に思えるだろう。